何かまた最近「○○しなきゃ」が顔を出し始めた気がしたので、それを浄化すべく小田桐あさぎさんの『私、ちゃんとしなきゃから卒業する本』を再読。
感想をまとめようとしてたんですが、やめます(笑)
全部読んで!!以上。
どこかを抜粋できないや。
率直に、興味があったら全部読んでとょうだい!って思いました。
何かしなくちゃいけないことなんて何もない。
こうでなくちゃ、そうするべき、そうあらねば、なんてものも何もない。
改めて、その感覚を受けとれました。
たぶんまた「走らなくちゃ」になってやしないか?を自分に問うてみたからだろうな。
🍊もし「不自由」と感じるのだとしたら…
私は常に「自由でいたい」と思ってきました。
大学時代、女子駅伝部というチームに所属しているのが本当に嫌だった。
会社(実業団)時代も「チーム名」を背負うのが嫌すぎて、ユニフォームを着てレースを走らなかった。
会社をやめたのも、時間と仕事に縛られる環境から逃げたかったから。
うわ、やだな。書き連ねるとただのワガママじゃん。
それは一旦置いておいて…常に「所属」に対してなぜか嫌悪感を持ち、逃げ続けていた。
チームの責任なんて負いたくない。
チームの一員として見られるのはやだ。
どこにも属したくない。
所属=不自由。
そんな定義を発動していました。
でも、それ(不自由)って本当に??
自由をはき違えてないか。
自由を捉え違えてないか。
……もちろん、イエス。
外側が「不自由」と感じるのは、自分自身が自分に対して「不自由」だから。
それを、外側の人や環境のせいにして逃げてただけ……
🍊すべては「自分」
自分で何かを決めることが怖い。
自分が決めたことに対して責任を負うのが怖い。
自分が選んだ組織が間違っていたらどうしよう。
自分が仲間と上手くやっていけるかが分からなくて怖い。
こういう「不安」や「怖さ」はすべて、自分自身との関係が不安定だから起こるものでした。
自分との信頼関係が無いから、常に怖い。常に不安。
本当はこうしたい。
本当はこうありたい。
心の奥では望んでいることがあるのに、「それは危ない」「それはダメ」とジャッジしてブレーキかけて、自分の望みたいように望ませてあげてない。
「不自由」は勝手に自分で作り出したものだったんです。
🍊走ることも「どちらでもいい」
「走ること」は私にとって大切なものであることは事実。
でも、本当は「走っても走らなくてもどちらでもいい」。
それを「走らないと私でいられない」「私には走ることしかない」「走らないと不安」という執着、特別視、依存にまで発展させちゃったのも自分。
発展させちゃったもんだから、「走ること」を自分に対しての枷にしちゃった。
自分で自分を縛り付けて、不自由な状態にさせてしまった。
……そりゃ、逃げたくなります。
一人劇場やってたんですけどもね(笑)
そんな経緯に気付かされ、じゃあ今はまた「走らなくちゃ」になってやしないかな?ってもう一度問いました。
どうやら「走りたい」みたい。
ちょっと今、腸脛靭帯炎になっていてまぁ、痛いんですけども。
でも、「ケアしながらでも走りたいだけ走りたい」。
何かね、走っている時の感覚をもっともっと丁寧に味わいたくて。
今日はどんな身体の感覚だろう?
聞こえてくる音は?
見える景色は?
まずは、そういうところから「リハビリ」していこうって。
走る前後のケアも丁寧に。
自分が作り出した「不自由」を「自由」に作り直していこう。
結局、走ることの話ばっかりになる最近のブログですが、きっと色んな物事にも生きてくると思います。
そもそも、人生自体がマラソンみたいなものだから。
以上、面白画像(すべて旦那さま撮影)いっぱいでお送りしました☆彡
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