「楽」なままでいいの?「走るだけ」でいいの?

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ささやかな「気づき」あれこれ。
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今回は久々に雑記です。

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今の私には定期的に訪れる波がある。

「仕事」や「お金」についてのこと。

旦那さまに一馬力で支えてもらっていて、私はそれについては何もしていない。

今は自由に一日が使えて、自由に毎日走れる日々。

贅沢すぎだ。

出逢った当初からこの状態だったけど、でもやっぱり、あまりに、幸せすぎる。

旦那さまは走ることをメインにしたいからと、試行錯誤して仕事を工夫しているっていうのに。

今さら感満載だけど、率直にどう思っているのか、この前聞いてみた。

「ま、羨ましいよ。もちろん。でも、俺はそうやって「羨ましいな」で終わる生き方は絶対に選ばないから。やりたいようにやるよ。仕事もやりたいからやっていて、走ることもそうだし、これからだって3万円のランニングシューズは買い続ける。お互いにやりたいようにやっていればいいのさ」

仕事の合間にポイント練習。

彼は、別に「我慢」しているわけではないんだと。今だってちゃんと、やりたいように生きているんだと。そういうことだった。

羨ましいと言う言葉にドキッとしたけれど、たぶん、こんな感じの自然体な答えが返ってくるだろうなと思ってはいた。

でも、言葉にして伝える必要は絶対にある。

だから「いつも本当にありがとうございます」って伝えた。

しかし、その数日後。

私は再び沈んでた。

きっかけは父の提案。

教職免許を持っているけど使わない私に対して、助っ人的な仕事の仕方があるよ、と。

だから、期限切れとなっている免許の再授与申請をしてみたらどうかと。

そういうことだった。

私、とにかく教員の仕事をやることに対しては嫌悪感MAXで、絶対にやらないと決めていた。(先生方は尊敬しているけど)

でも、その時は揺らいだ。

「やだ」とかワガママ言ってるような歳ではないよね?

「やりたくない」って最初から突っぱねてたら、何も分からないよね?

久々に気持ちがブレブレになって、それは走ることにも影響。久々に「走りたくない…」と身体が前へ動かなかった。

それでも走ると、少し気持ちがスッキリする。

落ち着いた頃に、旦那さまへ聞いてみた。

「楽のままじゃ、いけないのかなって。楽と楽しいは違うって、よく言うし……」

何だか不明瞭な吐露だったけども、彼はこんなことを言った。

「よくさ、スポーツ選手が『母に苦労をかけたので、楽させてあげたい』って言うじゃん。つまり楽ってね、幸せなんだよ。なっちゃん、今、幸せ?」

「うん、めちゃくちゃ幸せ」

「困難な道へ行くことが「是」とか「美徳」とか、日本はそういう風潮がある気がする。でも、別にわざわざ行かなくてもいいんだよ。仕事って、ちょっと暇だからやりたい。外界との詩劇が欲しいからやりたい。そんな動機で良いと思うんだ」

普段から、物事を客観的に、冷静に、分析して観ている彼らしい言葉だった。

私はたぶん、ちょっと「困難な道へ行きたがる」傾向がある。

今は全く逆のことをしていて、ウソだ!って思えるけど。

その「困難な道へ行く」モチベーションって、たぶん「生きている実感」や「頑張っている感」があった方が、安心だからだ。

「仕事もそうだけど、何かに苦労したり頑張ったり…その事しか考えなくて良いシチュエーションは、ある意味で「楽」だよね」

彼はそう付け加えたけれど、そうなのだと思う。

走ることだって、頑張ってる感が欲しいがために練習していたきらいがあった。

やみくもに追い込むだけ…なんて、本当に幼稚な私がいた。

今はもう、その段階からはバイバイするんだ。

結局、ぐるぐるしてまたもとの場所に落ち着いただけな気がする…

でもこうやって定期的に、「今に疑問を抱く」ことも大事で、自分に問いかけてゆく事はこれからも大切にしたいな。

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と、ツラツラ書いてみたけれど、そもそもは「走るだけで良いのか?」という疑問から始まっていた。

私の中ではいちばん「走ること」を大切にしてはいるけれども、「走ること」が何になる?何ににもならないんじゃないか?

MGC(マラソングランドチャンピオンシップ)を観たり、トップアスリートの言葉や生活を垣間見ると、本当に思う。

だから、「ただ走っているだけ」ではいけない。いけないというか、何かこう、違う感じ。

「走ること」は目的ではないから。

その先のこと…それはシンプルに「自己表現」なのかもしれないし、他の何かかもしれない。

分からないけれど、1つ確かなのは、言葉を紡ぐこと。

このblogもそうだけど、私は言葉を伝えたいらしい。

それをもうちょっと、先へ進めてみようかな。

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